「喫茶と酒処 まるさん」のカウンターには、その日のおすすめを書き添える小さな黒板があります。
その日、そこに並んだ文字は、いつもとは少しだけ違いました。
本日のお酒 兼八
そんな一日のお話です。
今夜のお酒は、麦焼酎「兼八」。
「本日のお酒」と黒板に書き添えるようになった、ある一日のお話です。
☕ 今夜のご案内
- 「本日のお酒」が生まれた理由
- 兼八という一本との出会い
- 香りと味わい
- おすすめの楽しみ方
- この一本と出会うには
どうぞ、ごゆっくり。
前の夜のこと
閉店後の店内は、昼間とは少し違う時間が流れます。
カップを洗い終え、店の灯りをひとつ落とすと、店の中はふっと静かになりました。
棚に並んだ瓶を眺めながら、私は一本の焼酎を手に取ります。
兼八。
ラベルを見つめていると、不思議と、あの日の香りがよみがえります。
初めて口にしたのは、湯葉と豆腐のお店「梅の花」での会食でした。
普段の私は、芋焼酎を選ぶことがほとんどです。
麦焼酎も美味しいと思うことはありましたが、「また飲みたい」と思える一本には、なかなか出会えずにいました。
けれど、その日だけは違いました。
グラスを口元へ近づけた瞬間、ふわりと立ちのぼったのは、香ばしく炒った麦の甘い香り。
口に含むと、驚くほどなめらかで、すっと喉を通っていきます。
派手さはないのに、もう一口、もう一口と味わいたくなる。
そんな一本でした。
家に帰ってからも、あの香りが頭から離れません。
そんなある日、東京駅を歩いていたときのことです。
はせがわ酒店の棚に、兼八の四合瓶が並んでいました。
「こんなところで、また会えるとは。」
思わず足を止め、小さく嬉しくなったのを覚えています。
——そうして、我が家へやってきた一本です。
その兼八を、いま棚から手に取り、しばらく眺めていました。
明日は、この一本にしましょうか。
そう思いながら、私は小さな黒板を、カウンターへそっと置きました。
翌日、黒板に書いたこと
翌日の午後。やわらかな光が差し込む店内で、私は小さな黒板を手に取りました。チョークを走らせる音だけが、静かに響きます。
本日のお酒 兼八
いつもより、少しだけ賑やかな黒板です。
しばらくすると、扉のベルが、小さく鳴りました。いつもの席へ腰を下ろし、何気なく店内を見渡したその視線が、小さな黒板で止まります。
「あれ、今日はお酒もあるんですね。」
「ええ。でも、毎日ではないんです。」
私は黒板へ目をやりながら、笑って答えました。
「気に入った一本に出会えた日だけ、黒板へ書くんです。美味しいものは、不思議と誰かにも味わってほしくなるんですよね。」
「へえ。じゃあ、今日はその日なんですね。」
私は小さくうなずきました。
「もしよろしければ、少しだけお試しになりますか。」
「それでは、ぜひ。」
私は棚から兼八を取り出し、小さなグラスへほんの少しだけ注ぎました。香ばしく炒った麦の甘い香りが、ふわりと立ちのぼります。
グラスを鼻先へ近づけると、ふっと表情がやわらぎました。
「……麦焼酎って、こんな香りなんですね。」
その一言に、「梅の花」で初めて兼八を口にした日の香りが、ふっとよみがえりました。美味しいものは、誰かと分かち合うことで、もう一度うれしくなるのかもしれません。
麦焼酎「兼八」とは
さて、常連さんが驚いたあの香り。少しだけ、お話ししましょう。
兼八は、大分県宇佐市にある四ツ谷酒造が造る本格麦焼酎です。1919年の創業以来、五代にわたって家族で蔵を守り続けています。
原料に使われているのは「はだか麦」。焼酎造りでは扱いが難しいとされる麦ですが、その個性を生かし、麦本来の香ばしさや甘みを丁寧に引き出しているのが、兼八ならではの魅力です。
よく「麦チョコのような香り」と表現されますが、その正体は、ローストした麦を思わせる香ばしく甘い香り。他の麦焼酎とはひと味違う、個性的な香りとして多くの焼酎ファンに親しまれています。
「麦焼酎って、こんなに香り豊かだったんだ。」
そんな驚きが、兼八との最初の出会いでした。
なぜ、なかなか出会えないのか
そして、兼八にはもうひとつ、よく知られていることがあります。
兼八は、「幻の焼酎」と呼ばれることがあります。理由は、生産量の少なさです。
はだか麦という原料自体が扱いにくいうえ、四ツ谷酒造は家族経営の小さな蔵。ひとつひとつ丁寧に手作業で仕込んでいるため、量産がききません。
人気に対して供給が追いつかず、正規の特約店でも入荷はごくわずか。店頭で偶然出会えたら、それだけで運がいい——そんなふうに言われるお酒です。
兼八を味わうなら
私は、ロックでいただくことが多いです。
氷が少しずつ溶けるにつれて、香りや味わいも少しずつ表情を変えていきます。その変化を、ゆっくり楽しめるところが気に入っています。
暑い日には、ソーダ割りでいただくこともあります。香ばしさはそのままに、すっきりと爽やかな飲み口になります。
それから、まだ試せていない楽しみ方もあります。
お湯割りにすると、あの香ばしく甘い香りがより一層引き立つそうです。お湯は70〜80度ほどを目安に、先にお湯を注いでから焼酎を加えると、自然と対流が起きて味わいがなじみやすくなるのだとか。
また、原酒であれば、キンキンに冷やしてそのままいただく「パーシャルショット」という楽しみ方もあるそうです。凍る直前まで冷やしても、香りやまろやかさが楽しめると聞きます。
どちらも、いつか試してみたい飲み方です。
寒い夜が訪れたら、お湯割りを。夏の暑さが増してきたら、パーシャルショットを。
季節ごとに違う表情を見せてくれるのも、兼八の楽しみなのかもしれません。
こんな方へ
兼八は、こんな方にこそ味わっていただきたい一本です。
こんな方に
- 「麦焼酎は苦手」と思っている方
- 香ばしい香りと、最後に残る甘い余韻を楽しみたい方
- なかなか出会えない一本との巡り合わせを、楽しみたい方
知っておきたいこと
- 香りにかなり個性があるため、好みははっきり分かれます。
- 店頭ではあまり見かけず、正規特約店や通販での購入が中心です。
- 定価より高い価格で販売されていることもあるため、購入の際は販売元を確認すると安心です。

麦焼酎は苦手、と思われている方にこそ、一度味わっていただきたいんです。香ばしさと、最後に残るやさしい甘みで、麦焼酎の印象が、ふっと変わるかもしれません。
兼八と出会うには
四ツ谷酒造は、蔵元での直接販売を行っていません。手に入れるなら、お店を通すことになります。
定価で購入したい方は、公式サイトに掲載されている正規特約店のリストを見るのがいちばん確実です。全国の取扱店が並んでいるので、お近くのお店が見つかるかもしれません。特約店の多くは、自社のオンラインショップも持っています。
定価の目安は、720mlで1,650円前後、1,800mlで3,190円前後(税込・要最新確認)です。
もっとも、特約店以外の酒販店でも購入することはできます。その場合は少しプレミアム価格になりますが、それも品薄なお酒ならではのこと。すぐに味わってみたいという方は、そうした一本を選ぶのもひとつだと思います。
まるさんの覚書
- 兼八の香りの正体は、ローストされたはだか麦の香ばしさ。
- 家族で蔵を守りながら、一本ずつ丁寧に仕込まれている麦焼酎。
- 定価で巡り合えたら、それだけでも少しうれしい一本。
- 「麦焼酎は苦手」と思っている方にこそ、一度味わっていただきたい。
- ロックやソーダ割りはもちろん、季節が変わったらお湯割りやパーシャルショットも試してみたい。
- 香ばしさを楽しむなら、燻製のおつまみ(スモークチーズやアーモンドなど)とも相性がよさそう。
その日の、閉店後
その日の営業も終わり、店内にはまた、静かな時間が戻ってきました。
洗い終えたグラスを棚へ戻し、私は小さな黒板を手に取ります。
本日のお酒 兼八
チョークの文字を消そうとして、少しだけ手が止まりました。
「……麦焼酎って、こんな香りなんですね。」
今日聞いた、その一言が、ふっとよみがえります。
文字を静かに消しながら、私は次に並べる一本のことを考えます。
また、誰かと分かち合いたくなる一本に出会えたら。
その日もきっと、この小さな黒板に、そっと書き添えるのでしょう。
あとがき
気に入った一本と出会えた日にだけ、黒板へそっと書き添える。
いってみれば、私からお客さんへの、小さなお手紙のようなものです。
「今日は、この一本に出会ってほしい。」
今夜のお話は、このあたりで。
また美味しいお酒に出会えたら、そのときは、ぜひ分かち合わせてください。
どうぞゆっくり、お茶でも——それとも、お酒でも飲みにいらしてくださいね。


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